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 安土桃山時代の結婚
 この時代の有力な武家の婚礼儀式は豪勢でした。中でも、信濃の小笠原宗長の娘と甲斐の武田晴信(信玄)との儀式は、小笠原流礼道の本家と当時の豪族武田信玄との縁組だったため、当代の最高の豪華さでした。
 婿は下に「肌」という白い袷(あわせ)を着て、その上に白綾(しらあや)の幸菱(さいわいびし)を織り出した中着を重ね、さらに上に身分の高い武士は直垂(ひたたれ)、身分が少し低い武士は素襖(すおう)・侍烏帽子(さむらいえぼし)を着用し、身分が低い者は何でも良いので着用するとなっていました。花嫁は上は白幸菱の打掛で下着は白色を着用していました。将軍家の娘やその他高位の家の娘は下に白い袷を着てさらに白い小袖を重ねて、その上に紅梅か何か練貫を着用し、白い細帯をして緋色の袴を着て、内掛には五ツ衣、その上に白綾の上着を、さらに唐衣(からぎぬ)、裳(も)を召していました。このように、婚礼の服装は白が基調とされていますがその理由としては「嫁は再び里に戻らない誓いとして死の覚悟の姿になる」という説があります。
 
 江戸時代の結婚
 江戸時代の政策は足利氏が強調した武士の礼道を尊重し、勤労を奨励し、贅沢を禁じ、家格を尊重していました。また、儒教を国民道徳の基本としており儒教で人の守るべき五つの道のうちの一つの「長幼の序(子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむというあり方)」を大切にしていました。このため、戦国時代のような豪華な婚礼式は減っていき、また夫婦の年齢に大差があることや幼少の結婚は無くなっていきました。さらに、室町時代末期から安土桃山時代に多く利用されていた政略結婚も減少しました。江戸時代初期に「婦人の守るべき道」を記した『女かがみ』『女庭訓』などといった出版物が現れました。それらには「夫には自由があり妻は他に従うもの」と書かれており、当時に男尊女卑の考え方があったことがわかります。
 この頃の婚礼で目立つようになったのが「仲人」という媒酌人(結婚の立会人)の登場です。これは自分の知っている家の息子か娘を相手に紹介して、一人または夫婦でその縁をとりもち世話をするものです。逆に、親が仲人を選考するところもあったそうです。選考する場合は、仲人の事務所があり、そこから選んで息子・娘の媒酌人となってもらうのですが、相手に息子・娘の紹介をする時、話を飛躍させるため、結婚後に話がもつれることもありました。
 仲人が定まると、仲人を幹事として「見合い」が始まります。見合いは常に媒酌人のペースで進められ、婿方が嫁をよいと思えば嫁側に仲人が扇子を贈らせました。
 
 幕末・明治時代の結婚

 江戸時代末期には遊郭や茶店、旅宿、料理屋、弓場など、男性を誘惑する場所が多くなり、家を留守にする人が多く家庭破壊の原因となりました。そのため、子供の両親はこれを懸念し早く結婚させることによって将来の心配を除去しようと考え、早婚が流行しました。よって結婚年齢が日本の中では世界と比べて早い方でした。当時の日本国民は、男子が平均二十二歳、女子が平均二十歳で結婚しており、ヨーロッパやアメリカはこれよりも年齢が上でした。また、商工家では男性に商業・行儀見習いとして十歳前後から商家に奉公させました。これを二十歳ぐらいまで勤め、二十五歳になると主人がその人に適当な嫁を定め、「別家」として資本を分与し、同業を営みました。別家は、「のれん分け」と称して店名まで継がれ、親族に次ぐ家とされました。この縁から、別家は盆と正月などの行事の際、主家のお祝い事や葬式などの時には、夫婦とも羽織を着てわら草履を履いて手伝いをしなければならない義務があり、明治時代にもこの風習は残っていました。
 「双方仲人」という媒酌人(結婚の立会人)が現れ、互いの親しい家の息子や娘を引き合わせて世話をすることもありました。ここでは、娘・息子は親に監視され、男女が互いに親しく話すことは禁止されていました。しかし、明治時代に入ってからは西洋の思想・習慣が入って、男女互いに同じ場所に集まる機会や交遊が自由となったところから、こうした風習もなくなっていきました。
 また、明治時代には宗教の自由が許されたので、結婚式も多様化していきました。中でも神道は皇室にも採用されました。明治三十一年に東京日比谷大神宮で行われた神前結婚式がその最初でした。キリスト教信者は外国と同じように教会堂で式を行いました。以前は尼僧は結婚を許されていませんでしたが、これも解禁され、公式に結婚する人が増えました。
 明治には民間人の見た目も変わっていきました。例えば、髪の毛は男女共に江戸時代のような髷などといった髪型は禁止され、化粧や結婚式の衣装も西洋化し、花嫁衣装にはウェディングドレスが採用されることが多くなりました。法律上においても結婚・離婚に幾多の規制が設けられました。それに伴って結婚媒介所という今でいう結婚相談サービスのような職業が生まれ、また新聞に広告して互いに適当な相手を選択する結婚広告なども登場しました。
 明治も後期に入る頃には、結婚の条件も変化し始め、家庭の事情よりも本人を中心に考えるようになりました。しかし、現在のように交際関係にある男女が手を取り合い、腕を組んで歩く姿は滅多に見られませんでした。

 
 大正時代の結婚

 大正時代には、交通機関が大いに発達しました。汽車、電車、自動車、バスなど陸路での移動が容易になるだけでなく、飛行機も登場したため各地への観光も盛んとなりました。そのため、婚礼行事の一つとして定着した新婚旅行は、これまでの時代より数が増えました。
 また、大正期は教育界も前進した時代でした。そのため女性は女学校を卒業してから花嫁修行として茶道、花道、音楽などの修行をして嫁入りしました。しかし、地方では依然として義務教育の小学校を卒業すれば家事を手伝わされ、良い縁があれば嫁入りする女性が多かったです。結婚する年齢は二十五歳は早い方で、三十歳くらいの人もかなりいました。
 なお、この時代には、昔のような婚礼の日取りや吉凶の迷信は少なくなったものの、嫁ぎ先の方角が吉方となる年月を選ぶ事は昔と大差ありません。また、映画館が続々と建設されていき、男女の出会いの場が増えていきました。そうして、自由恋愛は若い男女の常識となりました。結婚式も近代的で簡略な方式になっていき、祝宴は料理屋かホテルで行われ、新婚旅行が一般に広がっていったのは婚礼風俗の一大変化というべきでしょう。

 
 
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