江戸時代末期には遊郭や茶店、旅宿、料理屋、弓場など、男性を誘惑する場所が多くなり、家を留守にする人が多く家庭破壊の原因となりました。そのため、子供の両親はこれを懸念し早く結婚させることによって将来の心配を除去しようと考え、早婚が流行しました。よって結婚年齢が日本の中では世界と比べて早い方でした。当時の日本国民は、男子が平均二十二歳、女子が平均二十歳で結婚しており、ヨーロッパやアメリカはこれよりも年齢が上でした。また、商工家では男性に商業・行儀見習いとして十歳前後から商家に奉公させました。これを二十歳ぐらいまで勤め、二十五歳になると主人がその人に適当な嫁を定め、「別家」として資本を分与し、同業を営みました。別家は、「のれん分け」と称して店名まで継がれ、親族に次ぐ家とされました。この縁から、別家は盆と正月などの行事の際、主家のお祝い事や葬式などの時には、夫婦とも羽織を着てわら草履を履いて手伝いをしなければならない義務があり、明治時代にもこの風習は残っていました。
「双方仲人」という媒酌人(結婚の立会人)が現れ、互いの親しい家の息子や娘を引き合わせて世話をすることもありました。ここでは、娘・息子は親に監視され、男女が互いに親しく話すことは禁止されていました。しかし、明治時代に入ってからは西洋の思想・習慣が入って、男女互いに同じ場所に集まる機会や交遊が自由となったところから、こうした風習もなくなっていきました。
また、明治時代には宗教の自由が許されたので、結婚式も多様化していきました。中でも神道は皇室にも採用されました。明治三十一年に東京日比谷大神宮で行われた神前結婚式がその最初でした。キリスト教信者は外国と同じように教会堂で式を行いました。以前は尼僧は結婚を許されていませんでしたが、これも解禁され、公式に結婚する人が増えました。
明治には民間人の見た目も変わっていきました。例えば、髪の毛は男女共に江戸時代のような髷などといった髪型は禁止され、化粧や結婚式の衣装も西洋化し、花嫁衣装にはウェディングドレスが採用されることが多くなりました。法律上においても結婚・離婚に幾多の規制が設けられました。それに伴って結婚媒介所という今でいう結婚相談サービスのような職業が生まれ、また新聞に広告して互いに適当な相手を選択する結婚広告なども登場しました。
明治も後期に入る頃には、結婚の条件も変化し始め、家庭の事情よりも本人を中心に考えるようになりました。しかし、現在のように交際関係にある男女が手を取り合い、腕を組んで歩く姿は滅多に見られませんでした。 |