事件
幕末(江戸時代[徳川幕府]の終わり)は、
・開国を要求するアメリカ
・日本のトップである天皇(朝廷)、そして強力な政治権力と武力を兼ね備えた幕府
・幕府を守る立場の会津藩や新撰組
・元は攘夷派(じょういは)だったのに、開国・倒幕派(=幕府を倒す)へと転換する薩摩藩や長州藩
この時期の日本では、これらの複数の思惑が激しくぶつかり、新しい日本を形成する事件が数多く起きます。
以下、中でも重要なものを時系列で追ってピックアップします。新撰組の関わるものについては赤文字で示し、
やや詳細な説明を加えています。メンバーは、これらの事件に巻き込まれ、どのような最期を遂げたのか。幕末の流れを押さえながら、一緒に学んでいきましょう。
年代 | 事件名 | 説明 |
---|---|---|
1853 | 黒船来航 | アメリカ人のペリーが日本の浦賀に来航し、日本に開国を求める。詳しい説明 |
1854 | 日米和親条約 | 再び来航したペリーの圧力に負けて結んだ不平等な条約。詳しい説明 |
1858 | 日米修好通商条約 | 日本(大老:井伊直弼ら)が米国と結んださらに不平等な14ヶ条の条約。詳しい説明 |
1858 | 安政の大獄 | 江戸幕府(井伊直弼)が開国に反対だった派閥(尊王攘夷派など)を厳しく弾圧(だんあつ)した事件。 処罰されたものは100名を超えたといわれている。 |
1860 | 桜田門外の変 | 安政の大獄に怒った侍たちが、政治を取り仕切っていた井伊直弼(いいなおすけ)を 暗殺した事件。 |
1862 | 坂下門外の変 | 公武合体派政策を進めていた安藤信正(あんどうのぶまさ)が、 尊王攘夷派から非難され、江戸城の坂下門外で襲われ、失脚した。 |
1863 | 八月十八日の政変 | 公武合体派の薩摩藩と会津藩が手を組み、 尊王攘夷派を京都から追い出した事件。詳しい説明 |
1864 | 池田屋事件 | 一部の過激な尊王攘夷派は幕府を倒す計画を企てていた。そのことを知った新撰組は尊王攘夷派7人を討ち取ることに成功する。詳しい説明 |
1864 | 禁門の変 | 仲間を捕まえられた長州藩が京都へ攻め入った事件。詳しい説明 |
1867 | 大政奉還(たいせいほうかん) | 15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が、 いったん朝廷に政権を返したこと。しかし、これは、倒幕派の攻撃をそらし、 朝廷に徳川を含む新政府をつくろうとたくらんでのことだったのだ。 |
1867 | 油小路事件 | 新撰組を乗っ取ろうとした伊藤甲子太郎が新撰組におびき出され暗殺された事件。詳しい説明 |
1867 | 天満屋事件 | 坂本龍馬暗殺の犯人と疑われた三浦休太郎への仇討ちを新撰組が阻止した事件。詳しい説明 |
1867 | 王政復古の大号令 | 大政奉還で徳川は幕府の力を維持しようとしていたが、薩摩藩と長州藩は、朝廷と協力して、 徳川幕府倒幕を狙っていた。そして、王政復古の大号令は発し、徳川氏を除く新政府を作り上げたのだった。 |
1868 | 鳥羽・伏見の戦い | 新政府は徳川を政権に加えなかった。それに激怒した旧幕府軍は新政府軍に戦いを挑むが、、。詳しい説明 |
1868 | 甲州勝沼の戦い | 鳥羽・伏見の戦いの後、近藤勇らは甲府での新政府軍の足止めを命じられる。新撰組は甲陽鎮撫隊と名を改め甲府へ向かい、、。詳しい説明 |
1868 | 江戸無血開城 | 旧政府軍の代表である勝海舟(かつかいしゅう)が、全面戦争を防ぐため、 新政府軍の代表である西郷隆盛と交渉した。「内乱は国家を危うくする」と説明し、なんとか武力衝突は回避されたのである。 |
1868 | 近藤勇処刑 | 甲州勝沼の戦いに負け、再起を企てていた近藤だったが、偵察にきた 新政府軍に見つかる。そのときは偽名を使っていたため、近藤であることを隠し出頭し、後に逃亡するつもりであった。 しかし、新政府軍に近藤を知る者がおり、4月25日に処刑される。 |
1869 | 函館戦争 | 1867年、土方は生き残った隊士たちとともに蝦夷地(えぞち)に上陸した。 土方はそこで奮闘するも、1869年5月11日、乱戦の中で、銃で腹部を撃たれて落馬。そのまま死んでしまった。 |