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油小路アブラノコウジの変



1864(元治元)年、近藤は隊士募集のために東国にいた。
目的は伊東甲子太郎の入隊勧誘だ。
伊東と旧知の藤堂平助が事前に根回しをしていた。
伊東甲子太郎は熱心な勤王家で、近藤の幕府よりの武断路線とは微妙な違いがあったが、
入隊を受け入れ新撰組の参謀に迎えられた。


1866(慶応2)年、孝明天皇が36歳の若さで病死、毒殺説までも出た。
そして将軍家茂が大阪城中で病死、天下は大動乱となる。
こんな折、伊東が意外なことを言い出した。
「新撰組を脱退する訳ではないが、孝明天皇の御陵ゴリョウを守りたい。
このまま新撰組にいても情報収集がやりにくいので、敵の内情を知るための御陵衛士エジになりたい。」
そんな伊東に対して土方は新撰組別働隊として活動することを勧める。
だがそんな説得にも空しく、
「新撰組を脱退したい。裏でやれることはいくらでもある。」
などと隊規違反覚悟だった。
やがて孝明天皇御陵衛士との勅許チョッキョが下りる。
そして八番隊長藤堂平助、三番隊長斉藤一ら12人が参集し、新撰組を脱退した。


慶応3年、伊東は下京区の醒ヶ井木津屋橋付近の近藤勇妾宅に招かれた。
美酒に酔わされた伊東はその夜、油小路木津橋あたりで新撰組の刺客4,5人に襲われ、
滅多切りにされた。
重傷の伊東は油小路の法華宗本光寺運び込まれて絶命したのだ。


この事件で御陵衛士の藤堂平助、毛内有ノ助、服部三郎兵衛が惨殺された。
高台寺党の応戦は見事なもので、
服部は全身に20余の深手を負い大刀を握ったまま絶命、
現場は血の海で肉片が散乱していたという。



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