山南敬助の切腹
1865(慶応元)年、組を脱走した山南敬助が沖田に捕らえられ、脱走の罪で切腹した。
一年半ほど前に、局長だった芹沢鴨ら水戸派が
京都
近藤も一目置いていた山南は、内務の総責任者役の総長に祭り上げられていた。
表向きはナンバー2だが、裏方を仕切るマネージャー役、実際の現場責任者は副長の土方だった。
それでも肩書きにこだわる誇り高き仙台藩士の山南は、現場で華やかな立ち回りができない不満はあったが、近藤の信頼は厚く、まずまずだと思っていた。
学もある温厚な武士風景だったが、筋が通らぬと一転我を通す頑固一徹なところもある。
近藤の人望も厚く、沖田とは出稽古などで寝食を共にし、漢学を教えてきた間柄。
模範稽古ではいつも弟のような沖田が相手だった。
だが、土方だけは違っていた。
日頃から学問をひけらかし、農民をバカにしたような態度が気にくわなかったのだ。
やがて水戸学の論客で
山南と伊東が意気投合して尊攘論を戦わせているのを横目にした土方は面白くなかった。
そこへ山南が近藤に反対を唱え、伊東も長州藩士と関係を取りざたされていた。
土方はチャンスを見逃さなかった。
そして「捕らえて潔く切腹させよう」と近藤は言った。
沖田を出向かせたのはきっと山南を斬れないし、山南も沖田に剣は抜かないと思ったからだ。
そして山南は沖田に連れられ屯所にもどってきた。
そして隊士の目の前で見せしめの切腹をさせられたのである。