三条制札事件
1866年9月、制札を投げ捨てようとした土佐藩士と新撰組とが戦闘となった。
この事件の発端は2週間ほど前に遡る。
当時の第2次征長戦が行われた頃、
京都は長州藩を朝敵とするような内容が書かれた制札を何者かに引き抜かれるという事件が起こった。
鴨川の河原では3度にもわたって投げ捨てられたという。
そこで新撰組にその警備が命じられた。
早速新撰組の隊士36名は大きく3つに分けて現場に張り込みを開始した。
一橋の東詰の民家に大石鍬次郎隊10名、
制札場の西側の酒屋に新井忠雄隊12名、
南の先斗町会所に原田左之助隊12名。
さらに2人隊士は
監視開始から幾日経った頃、制札場に8人〜9人ほどの人影が現れた。
その人影の正体は土佐藩士であった。
すぐさま原田左之助ら一隊が斬りかかり、
大石鍬次郎も駆けつけて土佐藩士を2名討ち、1名を捕獲した。
残る5名は原田らが酔っていたせいか逃走してしまったのだ。
酔っていたが、一応幕府の面目を保ったということで、後日会津藩から報酬金が出た。
また、大石隊に属していた浅野が臆したために戦いに不参加となってしまった10名の隊士は、
注進が遅れたことを憤慨し、以後浅野には臆病者といってけなした。
やがて浅野は隊を追放された。
※制札 特定の相手や事柄を対象として制定された法令を記した掲示のこと