1864年、池田屋騒動にて新撰組は多大な死傷者が出たために、新撰組の人手は大きく不足していた。やがて会津藩士、柴司ら5人が応援として派遣される。
池田屋騒動後も新撰組は
明保野亭という料亭で浪士20名ほどが密会をしているという情報を得る。
早速、武田観柳斎を始めとする新撰組15人と会津藩士5名が出勤した。
到着した新撰組らは明保野亭へと踏み込む。
料亭をくまなく捜索していたが、そこには長州の不逞浪士の姿はなかった。
かと思われた矢先、突然屋内から2人の不審者が飛び出してきたのだ。
武田はすぐさま「逃がすな!」と叫び、近くにいた柴がその不審者1人を槍で突き倒す。
が、不審者と思われたこの人物は長州の不逞浪士ではなく、
麻田時太郎いう正真正銘の土佐藩士。
この当時、土佐藩は公武合体派に属しており、会津藩とは友好関係にあったため、
その場で解放された。
しかしこの情報を耳にした土佐藩は激怒した。
そして麻田は会津藩から「士道不覚悟」とされ、藩は麻田を切腹させた。
このことは柴司の兄・秀治の耳に入り、兄は弟である司に「切腹してくれ」と言う。
このことに対しして柴は、
「私一人のことで土佐藩と仲違いしてしまうのも恐縮なので、私は切腹します」
と答えた。
そして柴は兄の介錯で切腹し、事件は解決へと進んだ。