1868(慶応4)年、新撰組や会津藩を主力とした幕府軍は、
薩摩と長州を主力とする薩摩軍と京都の南、鳥羽街道で激突した。
世にいう
京都の幕府防衛軍のエースとして、不動の地位を築いたかに見えた新撰組だったが、
幕末から維新へ、歴史は風雲急を告げていた。
前年、徳川慶喜は大政奉還を願い出、「王政復古」が宣言された。
慶喜は二条城から大阪城へ移り、
不満を持つ幕府軍は京都に侵攻。
幕府軍とともに京都に向け北へ進軍、
薩摩軍と東寺、長州軍は東福寺からそれぞれ御香宮神社、竹田街道で南下して幕府軍を迎え撃った。
長州と新撰組の立場がまるで逆転したのである。
しかも開戦直後に薩摩軍は「新政府軍」として錦の御旗を掲げた。
このことに新撰組ら幕府軍は自分たちが賊軍となったことに
15代目将軍慶喜はすでに白旗を掲げて大阪城へ脱出、開戦直後に密かに会津藩主の松平容保らと榎本武揚率いる幕府海軍の軍艦「開陽丸」に乗り込み、江戸に向かっていた。
城南宮の小枝橋でののしり合いが緊迫したとき、薩摩軍の大砲が火を噴いた。
隊長を近藤勇、副長を土方歳三として総勢100にも及ぶ新撰組の精鋭部隊は、
自慢の武術の腕を振るう絶好のチャンスに燃えていた。
ただ、近藤だけは戦いの直前に伊東甲子太郎の高台寺党の残党に襲われ重傷、
戦場には姿を見せなかった。
そのため隊長代理の土方が戦陣をとった。
永倉、島田魁らの幹部を先頭に、隊士らは薩摩の陣地に乗り込む。
だが刀に槍の隊士が大砲にかなうはずがない。
新撰組は伏見から淀へ退却、さらに山崎へと敗走を続けた。
この戦いで故郷の日野宿から苦楽を共にしてきた、
助勤の井上源三郎ら30数名の隊士を失ってしまったからだ。
土方は負けを認めたが、最後まで自分の信じた道、幕府と共に戦おうと決めた。
「侍として生きる」それが土方の美学だった。
やがて武州に帰った近藤は激減した新撰組の残党の助っ人に郷里の兵士を慕って、
1868(慶応4)年、江戸から甲州へ転戦、再び官軍を迎え撃った。
故郷へ帰省して大歓迎を受け、兵士も予想以上に集まったため、近藤は
「京都や西国は官軍かもしれないが、関東はまだ徳川幕府だ」と気持ちを高ぶらせた。
だが甲州勝沼の戦いで敗れた近藤は、下総流山で偽名を使って投降する。
幕臣だから投降しても切腹は免れる、と思った近藤の読みの甘さがあった。
4月25日近藤は捕らえられて板橋で斬首され、京都鴨川の三条河原で晒し首にされたのだ。