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箱館戦争



1868(慶応4)年、新政府軍と旧幕府軍は最後の戦闘を繰り広げた。
五稜郭の戦いとも呼ばれるこの戦いの舞台は函館。


徳川幕府が大政を朝廷に奉還した上に「徳川家の辞官納地」が決定され、
江戸城はすでに無血開城された。
幕府のための「誠」の一字で尽くしてきたつもりの新撰組は、
賊徒ゾクト」と侮蔑ブベツ的な呼び方をされた。
明治と改元する直前の1868(慶応4)年に旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は、
軍艦八隻で江戸品川沖から脱出した。
榎本武揚自身がオランダ留学、輸入した幕府最大の新鋭旗艦「開陽」と「蟠龍」「回天」などの八隻で「衝鋒隊ショウホウタイ」400人、大鳥圭介の「伝習隊」385人など総計2800人。
その中に土方歳三、森常吉ら「新撰組」の150人の姿があった。


榎本軍の蝦夷エゾ攻略は、箱館府のある要港、箱館と五稜郭ゴリョウカク
松前藩の福山と蝦夷地の台所といわれる江差の三カ所だ。
土方らは箱館を目指して、敗走する官軍を追って五稜郭に迫った。
官軍総崩れを知った箱館府は、箱館港から「陽春艦」で青森に退却、
五稜郭は戦わずして榎本の手に落ちた。
「回天」「蟠龍」の2艦は、徳川艦隊を示す「日の丸」を高々と掲げ入港した。


松前藩がある福山攻略は、土方をトップとする700人が知内村で陣を構えた。
松前藩兵が土方軍の糧道を断つため、後方から放火して夜襲をかけたが、土方軍に圧倒されて逃亡。
さらに土方は進撃して松前藩を破り、市中の法華寺に大砲を据え付けて、
福山城内に砲弾をぶち込んだ。
松前軍は市中に火を放って、城下の4分の3を焼いた。
敵の手に落ちる前に焼いてしまうのが古来の戦法の一つだ。
残るのは民謡・追分などで知られ、北前船の基地として栄えた蝦夷の台所、江差エサシだ。
勤王派の牙城ガジョウでもある。
陸から土方軍と松岡軍、海上からは旗艦「開陽」に乗った榎本武揚が攻める。
しかし江差では廻船問屋や大店などは山中に家財道具を隠し、
金品は土中に埋めるなど「寂寥セキリョウとして人音なし」で無人状態だった。


「開陽」が鴎島に大砲をぶち込んでも無反応、榎本軍は江差を無血占領した。
ここで思わぬ誤算が起こる。
暴風雨に巻き込まれた「開陽」が座礁ザショウ、これを救援しようと箱館から駆けつけた
「回天」「神速」も荒天で近づけず、「開陽」は沈没。
「神速」も大破したのだ。
しかし榎本軍は箱館五稜郭、福山城の松前藩、蝦夷の台所の江差を制圧。
新撰組の栄冠はここまでとなる。


明治2年、官軍の総攻撃が始まり、まず江差を官軍が奪還した。
榎本軍の助走の始まりだ。
江差港には官軍の武器、食料とともに兵5000人が殺到した。
土方は二股口で激烈な戦闘を挑み、官軍は16時間かけても土方軍を落とせなかった。


一方榎本艦隊は「蟠龍」「回天」「千代田形」を失い、やがて榎本艦隊は消滅。
官軍が一気に優勢に立った。
土方勢は5月11日、箱館奪還を目指して大森浜から進撃し、
奮戦したが大敗、土方は官軍に単騎血戦を挑んだが腰を撃たれて落馬、絶命してしまう。
土方歳三の35年の壮絶な生涯だった。
日野の農家に生まれ、丁稚小僧修業の時代もあった。
近藤勇斬首、沖田総司病死のあとも幕臣でもないのに、
幕府に義を貫いた、一徹の人生だった。



このページは【第13回think quest JAPAN】に参加しています。