新撰組誕生の歴史。
夢にまで見た京都の違う景色に失望した浪士隊に追い打ちをかけることが起こった。
1863(文久3)年2月、京都到着後、壬生村の郷土・前川荘司邸と八木源之丞宅に分宿した隊士234人は、隣接する新徳寺に集められた。
勤王倒幕論を説いているのは幕府に将軍警護の浪士隊結成を上申したあの浪士隊のリーダー、清川八郎。
だが、浪士隊の大半はそんなの関係ない。
とにかく職にありつければいいといった浪人、農民などの
清河の演説に近藤勇や土方歳三ら
3月、試衛館グループと芹沢鴨、新見錦グループ、それに地元採用の斉藤一ら24人は京都に残り、「京都守護職預かり」の肩書きを掌中した。
手薄になった
洛中警備の任を与えられた浪士組は、早速会津藩本陣に挨拶に出向き、境内で武術の見事な上覧試合を展開したといわれる。
残留浪士24人は近藤らの試衛館グループと芹沢らの水戸派、新たに応募してきた浪士隊の殿内義雄、家里次郎など新参混成グループの三派で組織された。
元々一匹狼ぞろいの浪士故に丸く収まるわけはない。
やがて殿内が主導権奪取に動いたことに慌てた近藤は、芹沢派と手を組み3月のとある夜、近藤自らが四条大橋で殿内を斬り捨てた。
殿内派を追放した近藤・芹沢グループは四月末、京都を発ち大阪に向かう将軍家茂の警備に随行した。
幕府方や沿道の観衆にアピールする絶好のチャンスと、芹沢、近藤、土方らは制服を作ることを企画。
芹沢が大阪の豪商・
かつて江戸の松坂屋に奉公していた土方がデザインして、京都の大丸呉服店であつらえた。
「七卿の都落ち」という政変を浪士隊は御所南門(建礼門)に出動、大役を果たし、晴れて「新撰組」の隊名を授かった。