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禁門の変


禁門の変は別名蛤御門ハマグリゴモンの変とも呼ばれる。
6月下旬、京都に押し寄せた総勢3000人伏見長州屋敷、天王山、嵯峨サガ、天龍寺の三方面に分かれて陣を構えた。
京都側は嘆願などを受け入れず、朝議で退去勧告を決めるが、長州側はこれをはねつける。
7月中旬、しびれを切らせた長州勢はまず伏見方向から攻め込んだ。
藤森で幕府の大垣藩兵と衝突するが、新撰組や会津藩の加勢もあり、ここはあっさり敗退した。
残る天王山組と天龍寺組が、市中に敷かれた厳しい警戒線をかいくぐって、御所に到達した。
外周の九門を閉ざして、臨戦態勢を整えた幕府側兵力数万。
しかし死にものぐるいで攻め込む長州の精鋭たちに中立売御門が破られ、その勢いは禁裏に迫った。
すぐ南の蛤御門では、会津兵が浮き足立った。
薩摩兵の援軍が駆けつけ、付近一帯は修羅場のような激戦となる。
御所の中も大混乱と化した。
長州の砲撃、迎え撃つ薩摩の一撃。
最後は兵力で10倍以上の差をつけた幕府側が御所を守り抜き、長州勢はリーダー格の来島又兵衛が戦死。
それをきっかけに総崩れとなった。



伏見からとって返した新撰組は、長倉新八らが堺町御門に近い鷹司邸などに潜んでいた長州勢を追い散らす。
そして隊長の近藤勇を先頭に敗走する敵兵を天王山に追い詰めた。
この戦いの首謀者でもあった真木和泉ら16人を取り囲み、ついに真木らは自害して果てる。


こうして禁門の変は長州の惨敗に終わった。


このページは【第13回think quest JAPAN】に参加しています。