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権利の歴史

1978年 子どもの権利条約の草案がポーランド政府から提出

児童の権利宣言から19年後の1978年、ポーランド政府は国連人権委員会に「子どもの権利条約」の草案を提出します。ポーランドは第二次世界大戦で多くの子どもを失ったことに加えて、小児科医で孤児院の運営をしていたポーランドのユダヤ人ヤヌシュ・コルチャックの精神を引き継いでいました。

ポーランドは、1939年にドイツによる侵攻を受け、同年ソ連もポーランドに侵攻しました。ポーランドは独ソに分割され、第二次世界大戦の戦場となりました。第二次世界大戦により、ポーランドは子ども約200万人を含むおよそ600万人(人口の約20%)の人命を失い、1945年にソ連軍によって解放された首都ワルシャワの破壊率は80%程にまで及びました。このような大きな損害と不幸を経験したポーランドは、この惨禍を繰り返すまいと、児童の権利宣言の条約化を求め、「子どもの権利条約」の草案を提出しました。戦後、ポーランドは社会主義国となり冷戦下では東側陣営に属しました。西側諸国は人権と基本的自由を標榜するのは自分たちだけと主張していましたが、ポーランドは人権の分野において先導的な役割を担い、これに東側諸国も賛同し、その他の国々の賛成も得てきます。

ポーランドの「子どもの権利条約」草案提出には、ポーランドのユダヤ人小児科医で孤児院の院長を務めたヤヌシュ・コルチャックの精神も影響しています。コルチャックは「子どもの権利条約の父」とも呼ばれ、「コルチャック先生」の名で知られています。コルチャックは1911年から、ワルシャワに孤児院を建て、子どもたちの自主性を重んじた教育を行っていきました。孤児院は子どもたちの自治によって運営され、コルチャックは子どもたちを、人格を尊重して個性を伸ばすよう育てました。教師と子ども、親と子どもの関係を、互いが互いに影響を与え、時に成長させていくものと考え、「子どもにではなく子どもと」という言葉を残しました。コルチャックは、赤ちゃんを含めて子どもを権利の主体として捉える文脈で「子どもの権利」を唱え、当時としては斬新かつ先進的な思想を持っていました。『子どもをいかに愛するか』(1918)の中では、子どもは生まれた時から親とは異なる人格を持ち、権利の主体であるから、赤ちゃんでさえ親のものではなく、別の個別的な人間であると説きました。

コルチャックは、第二次世界大戦中の1942年、ドイツ占領下のポーランドにおいて、ユダヤ人絶滅政策のもと、200人の孤児院の子どもたちと共にガス室で死亡しました。この時、コルチャックは、その教育者としての功績から特赦を認められ、コルチャックはまず子どもたちを収容所への輸送車両から降ろすよう兵士に頼みましたが、兵士からは「子どもはダメだ。先生だけだ。」と言われたため、コルチャックは車両から降りることはありませんでした。

しかし、コルチャックの子どもを「権利の主体」として捉える精神はポーランドが草案を提出した「子どもの権利条約」に受け継がれ、条約の思想的な根本となっています。

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